存在の証明と消失

「人の存在が消える」という感覚を初めて感じた。

そして思ったことは、「人を消すのは社会なんだ」という社会への失望。


私が今感じているのは、インターネット上でしか見聞きしたことのない人、一度も会ったことの無い人の存在は、社会が消していくんじゃないかということ・・・。

先日記事にも書いた自殺した子のツイッターアカウントが、消えた、というより、消された。「どうしてかといえばそうだからだ」としか言い様がない程、削除された理解があるとも思う。しかしたったそれだけで、リアルで会ったことの無い人の存在は大きく消えてしまうのだ。

その事実が、とてもショックだった。私は若いから、友人の死に触れたことはないけど、今回の消失は親友の死に匹敵するぐらいのショックだと感じている。

そして気付いたことが、ツイッターアカウントは「もう一人の自分」であるということ。この意見には反対する人もいるだろうけど、賛成してくれる人もいると思う。

僕がツイッターアカウントをこういう風に捉えているというのを言葉にすると、

普段の現実に向き合っているのが自分だとして、その自分は表。

インターネット上の文字だけで存在しているツイッターのアカウントとしての自分は、表+表+裏。どうしてネット上の文字だけの存在が「表+表+裏」だと思うのか。それはツイートが自分語りで溢れてるし、周りに気遣う必要がないので本音が言えるから。その分自分が凝縮されているはずで−それは趣味だったり思想だったりパーソナルなものなわけだけど−、それは現実の自分よりも自分らしいと言え無くもないだろうから「表+表」。「裏」は言わずとも。

つまりツイッターのアカウントは人によっては現実の、生身の人間よりも人間らしい面があるんじゃないだろうか。それが消された。この出来事が、私には「一人の人間が社会によって消された」ように思えてとても悲しくてショックだった。

ツイッターのアカウントで本来の、もう一人の自分の存在を証明しながら生きていくのも一つの在り方で、僕はそうしていければいいと思った。

消失するのは僕が社会の悪になった時か、社会の無自覚な悪意(=虐め)の的になった時か、社会が終わった時だ。

(無理矢理な締め)

彼女に訪れたのがQ_sai_(救済)ではなく(精神的な)突き落としだったことを心の底から恨めしく思いながら。

(2014/03/12)